さとえブログ

ノンフィクション/エモい/現代っ子哲学

好きなアーティスト

さとえ(@satooooo_e)です。

 

本当は、好きなものというものを相手に直接尋ねるほど失礼なことはないと思っている。人が大切に大切にしてきた好きなものを一瞬で知ってその人を理解した気になってしまったら失礼だからである。好きなものを知りたいときは、婉曲的に少しずつ少しずつ知っていくのが最も綺麗だと思う。

だが、一々こんなものを実践するのはダルい。小説の中の物語だけで十分である。経験は、幻想を破壊する。

 

好きなアーティストと言っても、曲と歌詞と演技している歌い手が好きなだけであって、アーティストの実生活部分は全く未知である。これは幻想である。つまり、宗教である。椎名林檎は「曲はこういうものを作って欲しいという要請に合わせて作ったにすぎない」と言い切った。

 

よく聴くのは椎名林檎宇多田ヒカル赤西仁、高橋優、安室奈美恵だが、とりわけ椎名林檎宇多田ヒカルが好き。あとdogma、呂布カルマも聴く。つまるところ日本語が綺麗で旋律にマッチした強かさの裏に脆さが垣間見えるアーティストが主に好きで、内部に強烈な客観視かつ破壊衝動を持ち合わせているのを魅力に感じている。

そういえば、俺の感性はどちらかというと女に近いのかもしれない。椎名林檎が「私のコンサートに来る男性はどこか誤解していると思う。私は女性向けの曲しか作っていない」と発言したことがあるが、この矛盾から導き出されるのはそういった事実である。

 

ところで椎名林檎宇多田ヒカルであるが、彼女らの作風は恐ろしいほどに真逆である。おそらく一本一本糸を紡いで織物を完成させるのに椎名林檎は和室、宇多田ヒカルは洋室を用い、前者の曲は拡声器で届けられ、後者の曲は最後に得体の知れないベールで包み込まれた挙句偶然消費者の手元に落ちる。

椎名林檎は叫び散らしたり諦めたりガラスを割ったり上は見なかったり、街を飛び出したかと思ったら樹海に行ったりと猫のようであるのに対し、宇多田ヒカルは禁断の果実を食べた愛の源泉たりうる聖母マリアそのものである。いつか三島由紀夫が言っていたが、女の宿命は愛すること、つまり泉となることでそれは決して男には務まらないらしい。

 

dogmaは映画のキャッチコピーを誓約書の裏側に隙間なく書き込み、最後にその紙で大麻を巻いてライターで燃やしまくっているような感じで、呂布カルマは清流で拾った素質のある岩石をダイヤモンドで荒削りして、最後そのまま飲み込んでケツの穴から出したような感じ。

基本的にラッパーはそれがリアルにしろ幻想にしろ、法律をぶっ壊して非日常を見せてくれるから好き。自由を求めているのに束縛状態にある人たち向けの一種のコンテンツである。堀江貴文や落合陽一も同じだと思う。

 

 結局、アーティストというものは宗教に近くて、何か嫌なことがあったり精神が乱されそうになった時にいつも触れているものを通して正常な神経を保つための媒介道具としての役割が大きいと思う。