さとえブログ

ノンフィクション/エモい/現代っ子哲学

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「実際、」

 

本田はビールジョッキを片手で力一杯握りしめ、テーブルに勢いよく置いて言った。

 

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずって言うけど、あんなもん嘘っぱちだわ」

 

カシスオレンジを少し気取って飲みながら俺は答える。

 

「ああ。ついでに、学の有無によって貧富が決まるというのも嘘だ」

 

季節は冬、場所は渋谷の居酒屋。超有名大学の学生である俺と本田は、自らの大学の創設者であり唯一の先生と呼ぶべき人物の超有名な著書に異を唱えていた。二人とも、競争率の高い受験を乗り越え大学に入学したがほんの少しだけ思っていたものと現実が違った組、といった感じである。ほんの少し、ほんの少しだけである……。

 

俺と本田の出会いはこうである。

 

憧れの大学生活に胸を膨らませながら挑んだ入学式での出来事。俺はまず新しい友達を作ろうと思い、入学式で隣に座ってきた人に話しかけようと決めていた。あらかじめ話しかける言葉や話題も考えていた。だが、実際に隣に座ってきたのは茶色の短髪かつ強面で、スーツの上からでもそのシルエットがはっきりと分かるようなほどの筋肉の持ち主だった。俺はすっかり怖気付いて数分の間全く話しかける勇気が出なかったが、ここで出鼻を挫かれる訳にはいかないと思い、必死の思いで話しかけた。

 

「あ、あの」

 

そうしたらなんと、話しかけるタイミングが重なってしまったのである。以来すっかり意気投合し、俺たちは仲を深めていった。そして、以後友達の数が増えることはなかった……。後から聞いたところ、本田もいわゆる大学デビューを試みて入学前に染髪や筋トレを励んでいたそうだ。今は少し落ち着いており、髪は黒で、筋肉には多少名残が見られる。

 

今日は、大学が長期休暇中で二人とも暇だしとあるイベントに行こう、という話で集まったが、本田が待ち合わせ時間を大幅に遅れて登場したため、結局そのイベントには行かず、居酒屋で飲むことになったのだ。

 

「そういえば、成績どうだった?」本田が訊く。

「ああ、何個か落としたけど進級はできそうな感じ。お前は?」

「俺も同じような感じだよ。けどお前より落としてそうだから来年度が大変になる予感しかしないが」

 

本田も俺も学業に関しては低空飛行である。春学期にすべて出席した授業の成績が、その授業に全く出ずテストで好成績を残した者より低かった、という理不尽な経験をして以来、学問に対するやる気は完全に消失したのだ。まあ、大学の成績なんて進級さえできればどうでもいい。たとえ、ツケが後々に回ってきたとしてもそれを処理する能力は十分にある。なんたって本田も俺も超有名大学の入学試験を突破する素質はあるのだから。

 

しばらく飲んでいると、本田が酔っぱらい始めた。本田は非常に酔っぱらいやすく、その上、酔うと常人には理解しがたい行動をとることがある。夏休みに渋谷で本田と飲んだときは、まだ二人とも自分の酒の限度を知らなかったのでひどく酔っぱらい、俺は路上の片隅でうずくまり無限に吐き続け、本田は道玄坂で前転を繰り返し通行人の度肝を抜くといった有様であった。今では酒の飲み方を大体覚えたものの本田は、酒は酔うためのものであると思い込んでいるため、飲み始めたら止まらなかった。

 

「なあ、どうして俺には彼女ができねえんだよ」酔っぱらった本田が言う。

「それをいない人間に言うか?」

「お前はいつもそうだ。俺の真面目な相談に取り合ってくれさえしない」

「答えは単純。面倒だ」

「死ねや」

 

実際、人の真面目な相談に取り合うことほど面倒なことはない。本当のことを言えば相手が傷ついてしまうし、楽観的に励ますとそれはそれで自分に嘘をついたような気がして嫌だ。勝ち目のない戦いは最初から挑まないほうが賢明である。とはいえ、本田に関して言えば見た目は悪くないし話もそこそこできるので、いつか彼女はできるだろうとは思う。勿論、それを口に出して本人に伝えるのはもっと嫌であるが。

 

「じゃあ、論点を変える。お前は彼女が欲しいとは思わないのか」

「別に。思わない」

「何故だ」

「色々と面倒だ」

「入学時の友好的なお前はどこへ行った」

「天国へ行った」

「地獄の間違いだろ」

「死ねや」

 

俺は、友達は欲しいとは思うが彼女が欲しいとは全くもって思わない。周りの大学生が恋人作りに奔走しているのを見ると不思議に思うくらいだ。第一、彼女ができたところで得られるものと言えば、彼女がいるというステータスくらいである。だが、そのステータスを手に入れるまでに莫大な努力を必要とするし、手に入れても維持に要する努力は計り知れたものではない。まともに結婚を考えて付き合う男女なんて少数派だろうし、本当に付き合うことの意義が分からない。ゆえに、本田の思考も俺には理解不能である。

 

「俺たち、こんな感じで何も残せずに大学卒業するのかなあ」

 

 何杯目かのビールをぐっと飲み干してから本田は言った。

 

「未来のことは考えたくもない。今を精一杯生きられていない人間が未来について語る資格はない」

「おい、何言ってるんだよ、俺はまず生きるのに一生懸命なんだよ。お前もそうだろ?」

「俺が生きていられるのは明らかに周りの人間のおかげだ。俺は何一つ生きることに努力していない」

「そんなこと言い出したら、きりがないだろ」

「ビール一杯をとったって、製造する人や注いだ人、運んできてくれた人に感謝すべきだ。もしその人たちがいなかったらお前はこうして酔っぱらえていない」

「それはそうだけど……」

「第一、元をたどれば俺たちは親がいなかったら存在していなかった。そして親はその親がいなければ生まれていなかった。こうして繰り返していくと、最終的に生物を生み出した地球がなかったら俺たちはこうして喋ってはいなかっただろう。よって、俺たち、いや、人類は地球に感謝すべきだ」

「急にまともっぽいことを話すな」

「お前がまともじゃないだけだ」

「もしかしてお前結構酔っているな」

「いや全く」

 

酒の限界を覚えてからは、量を調節してなるべく酔っぱらわないようにしてきたが、どうやら今日は少し酔っぱらってしまったらしい。俺は酔っているとき他人に酔っているかと訊かれたところで、はいとは言わない性質があることくらいは自覚している。でも、本当に酔ってない時でも酔っているかと訊かれたら、はいとは言わないので、実際のところ自分でさえ酔っているかどうかは不明である。しかし、今日はカシスオレンジを四杯飲んでしまったので、おそらく酔っていると思われる。

 

「まあでも、適当に生きるのが一番だと俺は思う」本田が言った。

「少しは考えて行動しろ」

「考えて動くけど、成り行きに任せて考えたほうがいい。深く考えすぎると自分を見失う気がするからな」

「お前に深く考えられる頭があるとは、初耳だ」

「うるせえ」

「いいか、考えて考え抜いた上で下した決断こそ最も信頼できるものだ。成り行きに任せて生きていたら楽しめないし、いつか必ず失敗する」

「いや、考えすぎると自分の思考にしか目がいかなくなって先入観や偏見に捉われすぎるぞ。その場その場で周りに左右されつつ柔軟に生きていくのが最善だ」

「そうとは限らない。そもそも自分の思考は経験から生じたもので、少なからず他者からの影響はあるわけだから、その頭で考え尽くす方が流されて生きるよりよっぽど合理的だ。自分の頭の力を一番発揮できるのは自分だ」

「お前の考えだとその時々の人からの影響が皆無だ。そもそも、経験からは影響されるまでに時間がかかる。よって、俺の考えが正しい」

「いやお前の考えは間違っている」

「もう面倒だ、酔っぱらい同士の議論はしてはいけないということが痛感させられるな」

「酒が入った状態で野球、政治、人生観の話は駄目だな」

「人それぞれでおしまい、ということでいいか」

「ああ」

 

酔っぱらっていなくても、人との議論は大抵一つの答えに収束しない。だから、議論をするということは人間関係を面倒にするか、場の雰囲気を壊すかのどちらかである。意見のぶつけ合いは何も生まない。とは分かっていても、人は言いたいことを言ってしまうことが多い。結局、面倒になるだけならば最初から思っていることなど言わなければいいのに、言ってしまうのは相手に自分を認めてもらいたいからだ。俺は本田に認めてもらいたいとは少しも思っていないが。

 

「そろそろ出ようぜ」

 

またしばらく飲んだ後、本田が腕時計を確認しながら言った。俺は無意識に、時計が巻かれてある本田の筋肉質な腕をしばらく凝視していた。

 

「おい、死んでるぞ」

 

本田の言葉につられて俺も壁にかけてある時計を見ると、時刻は九時を回っていた。店を出なくてはと分かってはいるが、なかなか立ち上がる気になれない。もしかしてこれは歴代最高に酔ってしまっているのではないかと思い、本田に聞いてみる。

 

「なあ、俺カシスオレンジ何杯飲んだっけ?」

「確か八杯くらいだったと思うぞ。お前が今日は飲ませてくれと言っていたから止めなかったが」

「そうか、八杯か」

 

今まで生きてきた中で一番飲んだはずなのに、不思議と前に吐いた時のような不快感は全くなかった。頭が眠気で満たされ、なにをする気にもならないといった感じであった。しかし、弱い姿を本田に見られるのは癪に触るため、俺はあくまでも平生を装い、重い腰を上げた。

 

「よし、行こう。八杯も飲んだから会計がヤバいかもな」

「お前、今日は飲み放題だったからそんなにしないぞ」

「ああ、そうだったっけ」

 

俺と本田は会計を済ませ、店の外に出た。すると、視界に白い斑点のようなものが映っているのが分かった。これが酔いの限界症状なのかと思っていると、斑点が徐々に動いているのが感じられた。それは雪だった。暗い空を見上げると、街のネオンに照らされて、薄暗く大きな羊のような雲がのしかかっているのが見えた。雲はたくさんの小さな白い斑点をゆっくりと落としていた。酒を飲んだからか、寒さは感じなかった。むしろ、身体中がほかほかしているようで、寒いゲレンデでスキーをして体が暖まっている時のようだった。ぼうっとしていると、どこからともなく声が聞こえてきた。

 

「あれ、もしかして本田くん? 久しぶり!」

「秋元……?」

「覚えていてくれてたんだ! こんなところで何してるの?」

「大学の友人と飲みに来ていたんだよ」

 

どうやら、声の主は本田の旧友らしかった。俺は、本田が話し始めてからようやく寒さを感じ始め、酔いが抜けたような感じがした。さらに、急にとてつもない寂しさに覆われた。街の中には居酒屋も雑居ビルも本田も存在せず、ただ自分と降り続く雪のみが生きているかのような感覚だった。

 

成績は悪く、彼女もおらず、人間関係も上手くいかず、客観視すると取り柄が何もないことくらいは前々から分かってはいたが、唯一とも言えるであろう、大学での心の拠り所である本田までもが自分を見捨てたと錯覚することは、いくら酔いが手伝っているからだと分かっていても辛いことだった。同時に、俺は自分が嫉妬という新たな感情に襲われていることに気づいた。本田の方をちらりと見やると、談笑も終わり、別れを告げているところだった。俺は急に視界が眩んだ。倒れてしまわないように足で懸命に身体を支えようとするも、フラフラしてしまい上手く立てない。

 

「おい、大丈夫か!」

 

誰かの声が聞こえた気がした。幻聴だったかもしれなかった。声は耳には届いたが、脳内でかき消された。無意識的に俺は地面に倒れこんだ。すると、視界にかすかに映る白い斑点に紛れて赤色の光が見えた。俺は大学に入学してからのことを思い出した。本当に、退廃的な生活を送っていただけで何の成長もしていないものだと今更ながら実感した。

 

「立てるか? 返事をしろ!」

 

また幻聴か、と思ったが、身体が揺すられているのを感じたのでこれは幻聴ではないのだと思った。しかし、誰が身体を揺すぶっているのかは分からなかった。冬の、雪が降り続く渋谷の路上で俺は何をしているんだ、と一瞬現実に戻った気がしたが、それも勘違いかもしれなかった。そもそも、今いる場所だとか、白い斑点の正体が何かだとか、自分を揺すぶっているのは誰かだとかは全てどうでもよかった。俺はただただ、世界の全てを包み込む無を求めていた。退廃的な生活の後に待ち受けていたものは、深い虚無だった。ふと眠くなったため、俺はゆっくりと目を閉じようとした。

 

「起きろ!」

 

なにか雑音のようなものがまた聞こえた気がするが、すぐに忘れた。目の前にあるのは、薄暗い背景と徐々に近づいてくる白い斑点だけである。俺は白い斑点がなくなり、背景が真っ暗になるまで目を閉じ、久遠の無に思いを馳せた。雑音のようなものや、白い斑点が地面に落ちる音が無くなるまで、そう時間はかからなかった。